やりたい事と、やれる事は違う・・・
このことに気付くのが私はちょっと早かった様に思います。
恥ずかしながら、(なんで恥ずかしいか分からないけどなんか恥ずかしい)私は、中学、高校と、演劇部に所属しておりました。
そう、演劇に興味あり、でした。
高校1年生の時には、当時関西で人気だった「劇団☆新感線」のオーディションに合格、出演しました。
実はこの頃はまだ全く劇団の事は知らず、バトントワリング部の同級生に、一人でオーディションに行く勇気がないからと、誘われて、参加しました。
1公演限りのバックダンサー募集という事だったので、ダンス音痴の自分が受かる訳ないと思い、ただなんとなくの興味でついて行きました。
そしてありがちな、付き添いの友人のみ合格してしまうというパターン。
なんだか気まずいなと思いましたが、その友人は、私の合格をめちゃくちゃ喜んでくれて、(ええ子やなあ)私がそこに所属する事で、自分も劇団と近くなるから嬉しいと、言っていました。
本当にこの劇団が大好きだったのですね。
こんな感じで学校の講堂以外では、初めて舞台に立つことになった私。
その頃の劇団☆新感線の座長は今と同じ、いのうえひでのりさん。
今と同じ金髪で長髪でしたが、かなりスリムでした(いのうえさん、ごめんなさい)。
劇団員にはメインの古田新太さん(こちらも今よりかなりスリム)、まだ学生の羽野晶紀さん(アイドル的可愛さ)がいらっしゃいました。
私と同期?!で入った方々は、学生さん、OLさん、夜のお仕事のお姉さん、バイトさんなど様々でした。勿論高校生は、私一人。未知すぎる世界・・・。
いくらお客さんがたくさん入る人気劇団とはいえ、
まだまだ所属役者がそれで食べていけるほどの収入はありません。
みなさんそれぞれアルバイトやお仕事をしながらなので、お稽古は夕方の時間帯でした。
私は学校帰りにジャージを持って、制服で地下鉄に乗って稽古場までほぼ毎日、約1ヶ月間通いました。校則が非常に厳しい学校でしたので、前述の友達以外、誰にも内緒です。
中学からお嬢様進学校(私は普通の家でしたが)に徒歩で通っていた私にとってそれはそれは刺激的な日々でした。
まず「肉練」(凄いネーミング!)と呼ばれていた肉体訓練のため、梅田の街をジャージで走り、稽古場に戻ったら、腹筋、背筋運動、発声練習、ダンスの振りをつけていただく。
台詞の無い私達は皆さんの稽古をひたすら見守る。
ダンスが苦手な私は、振りが覚えられなくて、(しかも期末テスト期間はお休みをいただき遅れていたため)棒人間のイラストで
メモっていたら、古田さんに、
「そんなん書くより体で覚えろ!」と呆れられました。
そんななか、何より貴重な体験と感じたのは、今までの自分の狭い世界の中では絶対に出会うことの無かった方々と、濃密な時間を共に過ごしたということです。
特に同期の方々とはたくさんお話をする機会があり、「大人の世界」を少し覗かせてもらっている気がして、毎日ドキドキしていたように思います。
この人達は、収入にはならないし心身共にクタクタになるけれども、お芝居が大好きで、続けている。
そしてそれが楽しくて仕方がない感じ。
衣装も小道具、大道具も手作り、劇場入りしたら、セットの建て込み、幕が開いたら、お客さんの誘導まで自分達でやってそれもまた全部が楽しくて仕方がない感じ。
私も本当に微力ながら、その中の一員として参加させていただき、楽しくて仕方がなかったです!
そしてあっという間にその素敵な時間は終わりました。
私は演劇部に所属する普通の高校生という日常に戻りました。
が、元の感覚にはなかなかなれず、しばらくは余韻の中でボーッと過ごしていたように思います。
「やりたいことをやる」ということの楽しさと、それに伴う犠牲への覚悟についてなど、思いを巡らせることもしばしば。
きっとこの体験が、「このまま勉強して偏差値の高い大学への入学を目指す」ことへの疑問へ繋がっていったんだと思います。
私は確かに、あの素敵な時間を楽しみ、「またやりたい」と強く思ってはいましたが、このまま大学へ行って親に学費を出してもらい、演劇サークル活動などに明け暮れるというのはちょっと違うと感じていました。
すでに「プロ」に触れてしまったからでしょうか。
そして劇団の方々は、みんな、「自分の力で生きてる」という事が、何より凄いと思いました。
そう、「好きなことやってますが、誰にも迷惑はかけていませんよ」という生命力。
そこを一番尊敬し、憧れました。
今でこそ、「人間力」の重要性が教育業界でも謳われ始めましたが、その頃はまだまだ学歴社会真只中でした。
私はがっつりそのレールに乗っかっていましたが、このままで良いのか?私も「生きる力」を早く身に付けたい!と強く思うようになりました。
では私は高校を出て、どうしたら自立出来るほどの収入が得られるのか?
を具体的に考え始めた頃、ふとしたきっかけで「モデル業」というのが出てきました。
友人が私は読んだことのないティーン誌のモデル募集の記事を持ってきてくれて、
「よっこが最終選考まで残ったら推薦者も一緒に東京に行けるから、応募していい?」と、話を持って来てくれたのです。
その時私はもう18歳で、その雑誌が求めていたのはもっと若い世代(中学生とか)で、全く対象外でしたが、その時の応募写真が現在も所属しているモデル事務所の目に留まり、マネージャーが大阪まで会いに来てくれました。
劇団といい、モデル事務所といい、きっかけを作ってくれた友人達に感謝です。
ついでに言うと(笑)、夫との出会いも、劇団の稽古場に通っていた頃、ファンだという同期の女子大生さんが、今近くの劇場に来ているから会いに行くのをついて来て欲しいと言われて後ろについて行ったのが最初でした。
人生、何がどうなるか分からない
とはよく言いますが、私の場合、「頼まれたら断れない性格」が功を奏してきたのかも知れません。
その後、事務所の方と何度も話し合い、いよいよ、モデル業の為、東京行きを決めました。
両親には私が大学に行くため使うつもりだった資金を、上京の初期費用に下さいとお願いしました。
関西の大学へ進学する事は想定していたけどまさか上京するとは思っていなく、何不自由なく育てた娘に、「早く自活したい」と言われ、戸惑ったとは思いますが、言い出したら聞かない私の性格と、「ちょっと変わっている」事を理解してくれていた両親は応援してくれました。
劇団☆新感線の時も、母は菓子折を持って座長に挨拶に来てくれて、いのうえさんの金髪長髪にビビりながらも、よろしくお願いしますと頭を下げてくれました。
家路につく電車の中で、「座長さん、髪の毛黄色いとは聞いてたけど、長いとは聞いてへんかったで。」と、言われました。母にとっても人生で初めて接する人種だったのでしょう。黄色と金髪はだいぶ違うけど・・・。
感謝です。
モデルの仕事は高校の夏休みくらいから通いで始めて、
その頃には特待生入学していた予備校もやめ、(なんか途中で辞める予感があり、授業料免除の特待生試験を受けていました)、なるべく資金を貯めようと心斎橋のカフェでバイトを始めました。
当時流行り始めたティラミスをケーキケースから出す時に形を崩してしまったり(その頃のティラミスはショートケーキの形をしていました)、反社会勢力っぽい方にグレープフルーツジュースをかけてしまい、謝り倒したり、失敗も多かったですが、働いてお金を得る事の大変さを学びました。
上京して本格的にオーディションを受け始め、雑誌は「CanCam」が最初に決まり、その後「Ray」や「JJ」(専属契約)でも使っていただきました。
バブルは弾けた後でしたが、まだ、「名残り」のようなものがある時代で、振袖のカタログやら、銀行のポスター、結婚式場のイメージモデルなど、有難いことに仕事は順調にいただく事ができ、半年くらいで目標の「自分の力で生きる」事が出来るようになりました。
前にも書きましたが、1年後には受験をし、大学に行きました。
が、大学は「4年で卒業する事」を目標にし、仕事をメインに生活していましたので、(有難いことに、その頃のモデルギャラは今よりはるかに高かったのです)学費や成人式の着物も自分で用意する事が出来ました。
母から「せめて帯だけでも買わせて」と言われて、これじゃあ親孝行なのか親不孝なのかわからないなあと思ったのを覚えています。
ここで最初に戻ります。
私は「やりたい事」はお芝居でしたが、「やれる事」はモデルでした。
モデル事務所からもお芝居が関係するお仕事のオーディションを受ける事は出来たので、何度かドラマや舞台のお仕事もさせていただきました。
私が大学3年生になる頃には夫も上京して来て、「本物」に触れる機会も増え、自分との違いを痛感したりしていました。
劇団☆新感線もどんどん観客動員数を増やし、東京公演も盛んに行われるようになり、自分が一時期そこにいた事が信じられない思いで、客席から羨望の眼差しを向けていました。
そして私は20代前半にして、はっきりと「やりたい事」と「やれる事」は違うという結論に至ったのです。
お芝居の上手い下手は判断が難しく、もっともっと経験を積めば、それが仕事になったかも知れないのにという人もいましたが、自分の実感としてそこへ至るのが自分にとっては果てしなく遠い道のりで、あの頃の劇団員の方々から感じた「何を犠牲にしてでも」という覚悟も持てなかったのです。
モデル事務所から芸能事務所へ移り、アルバイトをして演劇学校に通い始めた先輩も居ました。
凄いと思います。
が、私はモデルの仕事も好きになっていて、やめたくなくなっていたのです。
きっかけは、生活の基盤を築くためではありましたが、オーディションに受かると嬉しいし、ポージングなどもどんどん慣れて来て、褒められるとより頑張ろうと思い、みんなで試行錯誤してクライアントさん(スポンサー)の希望通りの一枚が撮れた時には、達成感も得られました。
何より、自分が必要とされている、認められているという実感がそこにはありました。
そしてそれが自分の職業として成立していた事は、本当に恵まれているし、有り難いことだと感じていました。
「やりたい事」に拘らず、「やれる事」があったことに感謝して、
継続する人生も良いのではないかと思います。
「やりたい事」をとことん追求する人生も素敵だと思いますが、もしもそれが困難だった時、自分の「やれる事」を見つけてそこに生きる意味を見出すというのも、選択肢として悪くないように思います。
ある芸人さんが、「歌手やらスポーツ選手やらが、子供らに、『みんな、夢は諦めなければ必ず叶うよ!』とかテレビで言うはりてますが、あんなん嘘やで!現実は厳しい!そんな夢ばっかり見とったら、大人になって社会というジャングルに放り出された時にいろんな障害にぶち当たって、困るんは子供らや。夢なんか見んでええ、現実を見ろ!」と、仰ってました。
爆笑してしまいましたが、なんか、ええこと言うてはる、ような気がした私でした。